【京都府向日市】長岡京がたった10年で幻の都となったのは何故? 西国街道を歩く(向日市編)

 向日神社からかつての西国街道の一部ともなる物集女街道を五辻の常夜灯あたりまで行くと、新道と分かれて、さらに西国街道が続いていきます。2022年7月24日に散策してみました。

藤原種継

 入ってしばらく行った処に石塔寺があります。鎌倉時代に日像上人によって建立された寺院です。この寺院の看板にも書かれていますが、実はこのあたりは、長岡京の造営使に任じられていた藤原種継が暗殺された場所だと伝承されています。

藤原種継

 長きに渡って官吏を経験してきた、初めての皇太子として、山部王(のちの桓武天皇)は、長岡京遷都の際、地形、利水や治水、交通の便から地盤に至るまで調査させ、抵抗勢力にも悟られず、すみやかに遷都する戦略を、自らが造宮使に抜擢した藤原種継に指示したとも言われています。

藤原種継

 長岡京の建都・遷都に関わる諸準備は、まさに騎虎の勢いとも言うべき速さで進められたと言います。造長岡宮使が任命されて、十三日後の六月二十三日には、天皇の勅があり、新京の宅を造営するために(移住経費)、諸国の正税六十八万束を、右大臣以下参議以上の官人や、内親王、夫人、尚侍らに地位に応じて賜った。(続日本紀)などの記録もあるようです。

藤原種継

 延暦四年(西暦七八五年)九月、長岡京造営は、昼夜通しての突貫工事で、この頃までには基礎工事もほぼ終了し、まずは宮域から上物の建設が始められるほどであったと言われています。新京における第一次の大内裏造営現場(現在の向日市鶏冠井町荒内)に、種継が秦足長とともに直接に出張っていた際、何者かに依って放たれた矢に種継は倒れたとされています。

藤原種継

 種継逝去の当日、急遽、訪れていた平城京より帰還した桓武天皇は、直ちに事件の全容糾明を勅しました。実行犯を拷問した結果として、大伴家持の支族である佐伯高成ら、大伴一族が犯人とされ、皇太子となっていた早良親王の側近である春宮大夫の関与があったとされ、桓武天皇は、早良親王を廃太子として乙訓寺に幽閉し、関係者の処分を行ったとされています。十余日後に、親王は淡路へ移送の途上で逝去する。一切の水や食事を与えられなかったとも、自ら、無実を訴えて絶食し、絶命したとも伝えられています。

藤原種継

 事件の真相はいまだ闇の中の様です。いずれにしても、この事件も一つのきっかけとして、またも都は遷都されるに至ったのです。まだまだ研究すれば色々ありそうですね! 乙訓地域は面白いですよ。歴史フリークの人もぜひ遊びに来てください!
 

 

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