【京都府向日市・長岡京市・大山崎町】乙訓には首長級の古墳がいっぱいです。埋葬されているのは誰かなあ?
乙訓地域と呼ばれる向日市、長岡京市、大山崎町には、「乙訓古墳群」と言われる古墳時代(3世紀~7世紀)の首長級の古墳がいくつも存在します。一つの地域で首長の古墳が継続して築造された事例は日本列島の中でも希少なものだと言います。2022年8月21日、散策を兼ねて、いくつかの墳墓を訪れました。
国史跡に指定されている古墳だけでも、向日市には、五塚原古墳、元稲荷古墳、寺戸大塚古墳、南条古墳、物集女車塚古墳、長岡京市には、長法寺南原古墳、恵解山古墳、井ノ内車塚古墳、井ノ内稲荷塚古墳、今里大塚古墳、大山崎町には、鳥居前古墳があります。
「今里大塚古墳」は、終末期(7世紀)に築造された最後の大型古墳です。埋葬施設は、巨石墳に分類される大型横穴式石室で、その規模は乙訓地域最大です。平面プランや石室壁面の構成は、石舞台古墳(奈良県明日香村)や山城最大の横穴式石室である蛇塚古墳(京都市右京区)と類似しており、畿内中枢部(大和政権)の直接的な影響下に成立した古墳といえます。」(長岡京市公式ホームページより)
物集女街道沿いの向日街競輪場から西に入った辺りにある「五塚原古墳」は、ちょうど「はり湖池」の西側に位置します。向日市の案内看板には、「古墳時代前期(3世紀後半)となる今から1650年前の前方後円墳です。」とありました。
「物集女車塚古墳」は、古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳です。淳和天皇(840年没)の棺を運んだ車を納めた地という伝承が、名の由来とされています。「石室の構造や副葬品(馬具、ガラス製の装飾品、金属製の冠の断片、武器、土器等)から、埋葬者は6世紀前半に弟国宮をつくった継体大王と所縁が深い人物と考えられています。」(京都府向日市歴史観光サイトより)
文字が残らない口伝の時代、検証は難しいですが、これらの墳墓のいくつかは継体天皇も重用したとされる渡来系の秦氏の首長が埋葬されているとの説もあります。物集女車塚古墳を最後に、市域では前方後円墳などの大型古墳は造られなくなり、やがて仏教伝来とともに有力豪族は寺院を建立するようになっていきます。