【京都府向日市】物集女ってどう読む? 織田信長や細川藤孝に抗して、惣国一揆以来の土豪の誇りを貫いた物集女忠重!
中世には、乙訓地域(現在の向日市や長岡京、大山崎町)と、葛野郡の桂・川島付近を合わせた地域が、西岡(にしのおか)と呼ばれていました。西岡一揆と呼ばれる惣国一揆を起こせるほどの独立した惣国として発展してきていたのです。国人衆は、地域の要所に城館を構えていました。代表的な国人衆としては、物集女氏、神足氏、中小路氏、能勢氏、寺戸氏、革嶋氏、鶏冠井氏、小野氏、竹田氏、野田氏などが挙げられます。どこかで聞いたことのある名がありますね。そうなんです、そのまま現在の地名になっている地域が多いんです。
「雍州府志(ようしゅうふし)」によれば、「西郊三十六人衆は、公方譜代の士なり」とあり、西岡には室町将軍家の家臣で、西岡被官衆と呼ばれ、三十六人の国人がいたことが分かります。その一人が物集女氏でした。室町時代に入って、債務の破棄などを要求する一揆が起こると、西岡は京攻めの一揆勢力となりました。一揆にあたって西岡の人々が集まった場所が向日神社で、出動にあたって神前で奉納舞なども行い結束を固めたと云われます。
中世には、塩や塩合物(塩に漬けた魚類)は、産地である瀬戸内海沿岸から淀川を通って、淀の魚市に集められ、畿内各地へ送られていました。秦氏の末裔と称する物集女氏は、天龍寺領物集女庄の代官として、年貢の納入を管轄し、庄内の名請地を耕作する一方で、後醍醐天皇の勅願寺として名高い崇恩寺の門前などで、塩合物の売買を主として、塩市を統括し、西岡一の有力土豪として名を馳せていました。
2022年6月29日、向日市にある物集女城跡を訪ねてみました。物集女と書いて「もづめ」と読みます。物集女城は、物集女縄手沿いに、堀と土塁で囲まれ、方形単郭式の曲輪を中心に、西方の山手に向けて広がる。自然の地形を巧みに利用し、強固な防御機能を誇っていたと言われています。
いよいよ織田信長が畿内に進行してきました。足利将軍を奉じての上洛であったため、物集女氏、神足氏や中小路氏、革嶋氏などは織田軍に従います。しかし、信長が足利義昭を京の都から追放すると、物集女忠重(宗入)は、我らの所領は、代々の所領であるが故、宛行をされる覚えはないとして、惣国一揆以来の西岡の土豪としての誇りを貫こうとしたと云われます。勝龍寺城に入った細川藤孝に最後まで反抗して、とうとう天正三年(1575年)の秋、勝龍寺城下において細川藤孝の家老の松井康之にだまし討ちに会い、謀殺されてしまいました。いわゆる勝竜寺騒動です。戦国時代の乙訓地域はなかなか面白いですよ。散策して見てください!