【向日市】国の史跡に指定されることになった物集女城跡って?物集女氏ってどんな人?

長岡京市や向日市などには読み方の難しい地名がいくつかありますね。神足と書いて「こうたり」、鶏冠井は「かいで」、物集女は「もずめ」と読みます。2024年10月8日に物集女城跡を訪ねて、いろいろ調べてみました。

物集女城跡

中世の頃には、乙訓地域(現在の向日市や長岡京、大山崎町)と、葛野郡の桂・川島付近を合わせた地域が、西岡(にしのおか)と呼ばれていて、室町時代には幕府の御被官36人衆と呼ばれる土豪の人たちによって治められていたようです。これらの名前は、寺戸氏や能勢氏、革嶋氏、中小路氏などと合わせて、その有力領主たちの名前なんだそうです。

物集女城跡

織田信長が入洛する前に、向日神社や勝龍寺城を寄合の場所にしていた土豪の人たちは、西岡惣国一揆を起こせるほどの結束があったようですが、圧倒的軍事力を背景にした信長軍の前に、幕府に従うも民の命と引き換えに自害した鶏冠井氏と信長の傘下に下った革嶋氏や中小路氏、神足氏などと、西岡の国衆も真っ二つに分かれて戦うことになったのです。

物集女城跡

さて、国の文化審議会が2024年6月24日に文部科学相に行った答申を受けて、史跡に指定されることになった向日市の「 物集女城跡 」は、そんな戦国時代の遺跡で、中世城館としては京都府内初の指定となるのだそうです。

物集女城跡

最後の領主となった物集女忠重(宗入)は、信長が足利義昭を京の都から追放すると、勝龍寺城に入った細川藤孝に最後まで反抗して、「我らの所領は、代々の所領であるが故、宛行をされる覚えはない」として、惣国一揆以来の西岡の土豪としての誇りを貫こうとしたと云われます。

物集女城跡

とうとう天正三年(1575年)の秋、勝龍寺城下において細川藤孝の家老の松井康之にだまし討ちに会い、謀殺されてしまいました。これを勝龍寺騒動というそうです。

物集女城跡

乙訓地域は歴史の逸話もたくさん伝わる魅力的な街です。ようやく秋らしくなってきたこの期にゆっくりと出かけて見られてはいかがでしょうか!

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harru

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