【長岡京市】長岡京って大きな都だったんですね! 発見したのは奇人と呼ばれた高校の先生だそうです。
JR長岡京駅から長岡天満宮の方へ向かって、2024年10月7日に歩いていると神足商店街の入り口近くで石碑をみつけました。「長岡京発見の地」と書いてあります。なんだろうと思って調べてみました。
なんと立派な平城京(710年)、鳴くよウグイス平安京(794年)と中学生時代でしょうか、歴史の勉強で年号を覚えたものです。実はまだまだ知られていませんが、平安京に遷都する前の10年間に実は長岡宮という都がありました。市の名前の由来でもありますね。今まで幻の都といわれて、その存在すら疑われていた長岡宮を発見して、その都が、現在の向日市まで続く、平安京と変わらない規模の広大な規模の都だったことを証明したのは、考古学会で奇人と呼ばれた高校教諭の中山修一さんだったそうです。都の中心となる大極殿や朝堂院など、今の国会議事堂のような施設は向日市にありました。
終戦後すぐ30歳で京都大学文学部史学科に入学し、地理学を専攻した中山さんは、在学中に平安女学院講師となりました。新神足村開田小字下ノ町15に転居した際、この付近の水田の区画が、条里の地割でなく、条坊地割であることに気づいたのです。1951年に35歳で西京高校教諭となった中山さんは、長岡京の研究に没頭する中、それから3年後に長岡京復原のきっかけとなった蓮池の存在に気づきました。その翌年には、長岡京の発掘調査に着手し、朝堂院中門にあたる会昌門跡を発見。以後発見を繰り返し、ついに1959年(昭和34年)長岡宮大極殿跡・小安殿を発掘しました。
それから64年、その意思を継いだ人たちの手で新発見も。各種メディアでも報道されている通り、京都市埋蔵文化財研究所は、この9月19日に「これまでの通説では、都の北限とされてきた『北京極大路』(向日市)の約120メートル北(京都市南区)から、京内から連続する長岡京期の道路と、それに隣接する建物などがみつかった」と発表しました。
そうなんです。長岡宮の北の端は、さらに今の京都市南部まで広がっていた可能性が出てきました。そんなに大きな都をたった10年で捨て去った理由には諸説あるようですね。
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