【長岡京市・向日市】一文橋の名前の由来 橋を渡るのに昔はお金が必要だったんですね!
ちょうど長岡京市と向日市の境界を隔てる橋の名を「一文橋」と言います。なんで一文橋というのか気になったので、2024年9月27日に調べてみました。
よく「長岡一文橋」という愛称を耳にしますが、橋のある場所の住所は向日市上植野町吉備寺になります。ここからちょうど向日市の西国街道が始まります。物集女街道に至る道が最近になって、綺麗な石畳の道に整備されました。
橋の四方には大きな一文銭のモニュメントが飾られています。その道の起点に一文橋の由来について書かれた石標が建っていました。室町時代に造られた有料の橋なんですね。大雨のたびに流されるので、架け替え費用のために一文を取り始めたのが由来と書いてありました。
住民生活や大名行列を始め、西国街道の往来に必要な橋なので、その度ごとに架け替えを行いました。しかし、橋を造る費用は莫大で、幕府にとっては大きな負担になっていました。そこで考え出されたのが、橋の袂に橋守を置いて、橋を渡る人から通行料として一文を徴収するというものでした。日本で初めての出来事だったようで、いつしかこの橋は「一文橋」と呼ばれるようになったんだそうです。
この橋には心温まるエピソードもあったようです。諸説ありますが、何も知らない振りを装って物事に取り合わぬことを「知らぬ顔の半兵衛を決め込む」などといいますが、語源は通行料が払えない貧しい人が橋を渡ろうとした際に、わざと素知らぬ顔で見過ごす橋守もいたようで、この橋守の名が半兵衛と言ったというものです。
コンクリートとなった今も一文橋は、長岡京市と向日市を結ぶ重要な橋として、人々の生活を支え続けています。もちろん現在は無料で通過できます。
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