【京都府長岡京市】信長の宿、日本孟宗竹発祥の地、天下分け目の天王山を一望! 歴史ロマンあふれる奥海印寺を散策してみました。
長岡天満宮の八条ヶ池からさらに西山方面に向かって西へ進むと、西国街道と分かれて、奥海印寺通りという道があります。奥海印寺通りに入ると急に坂がきつくなりだしました。なんとか登っていくと、走田神社の参道にたどり着きました。登り切った後にはご褒美があります。走田神社からは、明智光秀と羽柴秀吉の天下分けめの戦いとして名高い天王山を始め、山崎の戦いの古戦場を一望することができます。これが絶景です。
走田神社は、奥海印寺村と長法寺村両村の守り神です。名の由来は、初穂(走り穂)を作る田んぼ、つまり早稲田という意味で、ご祭神は、春日の四柱神・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)・姫大神を奉っています。平安時代中期の法令集「延喜式」の神名帳に記載されていた「式内社」で、平安時代からの格式の高い神社だったと伝わります。
走田神社には、今も伝わる年中行事がいくつかあります。「毎年1月に氏子たちが集まって太さ20センチほどのしめ縄を作り参道の石段の中ほどに吊り下げます。しめ縄には12個の御幣(榊)が取り付けられ、この御幣の下がり方によって年間の気候や豊凶を占っていた」(長岡京市公式HPより)のだそうです。
また例年、1月13日に的矢射(まとやうち)の儀式が行われます。昔、奥海印寺城主だった高橋勘解由左衛門の子孫によって今も継承されていると言います。2人で6本ずつ、計12本の矢を的に向かって射ます。12本の矢はそれぞれ月を表していて、的の真ん中の黒点に命中すればその月は豊作だと言われています。
近くには、木の上山海印寺寂照院があります。嵯峨天皇の弘仁10年(819年)に、道雄によって、創建された海印寺の塔頭です。境内入り口には、南北朝時代に造立したと伝わる阿形、吽形の仁王像があります。この寺には、西岡地域の制圧の際、上洛した織田信長が一泊したとの記録が残っています。鎌倉時代の千手観世音菩薩像や平安時代の妙見菩薩、日本最古の水子地蔵尊など数多くの仏像が安置される由緒ある寺院です。
まだまだありますが、長岡京市に来たら歴史ロマンあふれる奥海印寺へも足を延ばしてみてください。